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interview

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第5回目(前半)「幸せと暮らしを支えるために」

インタビュー
舩曳さん写真

舩曳 明美さん

訪問看護ステーション居宅介護支援
シルバーコミュニティーサロン あざみ野ヒルトップ
看護師

事務局長写真

森川 悦明

聴き手
医療法人社団フォルクモア
事務局長

 

 

地域の方々が何を求めているのか
その思いに沿うだけ、それしかありません

 

熊本で看護部長を10年間
同時に大学で福祉を学ぶ

森川
本日は、訪問看護事業、居宅支援事業を行いつつ、あざみ野で地域の方々のためのサロンを運営されている、舩曳明美さんにお話しをお伺いします。当クリニックの在宅医療でも、緊密に連携していただいています。
まず、舩曳さんは看護師としてご活躍でしたが、事業所を立ち上げるまでのお仕事の流れを聞かせていただきたいのですが。
舩曳さん
私は看護師として、1970年代の日本の医療を見てきた世代です。その頃の医療の主流は、薬漬け・注射漬けでした。特に療養期の病院ではその傾向が強く、当時、朝日新聞記者の大熊一夫さんの著書“ルポ老人病棟”に実情を掲載されていましたが、日本全体がそういう時代だったと思います
もう30年以上前のことですが、私も生まれ故郷の熊本で、同じような医療の矛盾を感じながらも医療に携わり、病棟の看護部長を10年間続け、副院長になりました。熊本県から業務を受けたり、新聞に活動が掲載されたり、執筆や講演を頼まれることも多かったのです。
そうするうちに、私は社会福祉士のソーシャルワークに深い興味がわき、43歳のときに大学の社会福祉学科に入学しました。仕事をしながらの通学。執筆もあり、もう削れる時間は睡眠しかないという忙しさでしたが、それでも自分には足りないものがありました。

 

輝生会で初台リハ病院の立ち上げに参画
船橋や台東区でも地域医療に携わる

森川
頭が下がる思いがしますね。持ち前のバイタリティーがおありなのでしょうが、勉強熱心で、理想を探求される姿勢が素晴らしいです。
舩曳さん
その時期に、回復期リハビリテーション病院の制度の礎を築かれた石川誠先生に出会ったのです。石川先生は日本の70年代の医療を見てこられた世代で、高知県でリハビリテーション病院の院長をされていました。「日本の医療を変えるには、東京にリハ病院を作らないといけない」という信念を持っておられ、私は東京での病院立ち上げに声をかけて下さいました。47歳の時。大学の卒業論文をまとめる時期と重なっていたので、週に1回、熊本に帰って卒論に取り組み、そのほかの日は東京で“初台リハビリテーション病院”の開設準備に関わりました。
森川
人生の転換点、ですね。
舩曳さん
はい。看護師は、ともすれば「ザ・看護」という視点を持ちがちですが、それでは地域には溶け込めないと気づかされました。私自身、熊本では持てはやされた感じがあって、「私は何でもやれるわ」というような意識が、少なからずありました(笑)。でも石川先生は、そんな私では地域社会では求められないと見透かしたのでしょう。徹底的に鍛えられました。それまでに自分が積み上げてきたものを、ぐちゃぐちゃに壊されましたね。
石川先生は、利用者を中心としたチームアプローチが重要で、そのためには、一番利用者に接しているケアの人たちも、医師や看護師と同じテーブルにつかなければいけないと指導されました。ケアの人たちが、壁を感じることなく、利用者の必要なことを医師や看護師に発信できるようにならなければならないと。このケアと医師・看護師の間の壁を取り払うときに「ザ・看護」のような人がいたらできないのですが、実は、それまでの私はそうであったわけです。
私は、これからどのように生きていけばいいのだろうか悩みました。
舩曳さん
初台リハビリテーション病院の取り組みが認められ、オープンして4年目ぐらいに船橋市の公設民営病院の計画に参加し、2008年に“船橋市立リハビリテーション病院”が開設。運営が軌道に乗るまで携わっていました。振り返れば、これらの実績から回復期リハビリテーション病院の制度ができて、日本が70年代の医療から抜け出す一歩になったと言っても過言ではないかと思っています。
森川
それまで欠けていた医療の視点が、実績を通じて結実し、国の制度化にまで至ったのですね。
舩曳さん
船橋の次に、台東区の“たいとう診療所”に就きました。診療所であると同時に、訪問診療、訪問看護、訪問リハビリテーションを統合し、“在宅総合ケアセンター元浅草”として在宅生活をサポートする機関です。8階建てのビルのすべてが在宅部門で、100名ほどのスタッフが働いていて、私は2012年に副センター長に50歳後半で就任し、医療と福祉を横断的にみることができました。
そして60歳のとき、医療と福祉を学んだ立場で、地域に根差した仕事を、自分自身で興してみたいと思い。65歳の定年まで働いてと言ってくださっていた石川先生に、「ごめんなさい。私はここまで」と言って退職させて頂きました。
森川
船曳さんのお話を伺っていて、重なる経験が蘇りました。 私は、高齢者住宅の運営に携わるようになったときに、介護職が看護師にケアについて判断を仰ぐことが多いので、介護職にもっと自信をもってほしいと感じていましたが、あるとき、廃用症候群について教えていただいた方から、「いつも身近にいる介護職が利用者のことを一番よく知っているのだから、介護職がもっている情報こそが、利用者をよくするための情報なのだ」と助言され、目から鱗が落ちたことがあります。それを機に、利用者の日常の情報をよく知る介護職は、もっと自信を持てと指導することができるようになりました。 やはり、在宅医療には多職種の連携が欠かせませんね。

 

舩曳さん
医師や看護師の医療側がケアの立場にたって、ケアの人たちの考え方を理解して具体的に協力していかないとうまくいかないということですね。たとえばテキストにはよいことが書いてあったとしても、その利用者の方々の厳しい現実の生活に照らし合わせ、利用者の方の気持ちに寄り添ったケアを考えることが大切だと思います。今、目の前で起こっているおむつ交換でもどうなのかという様に考えないといけない。このあたりは、友人でもある介護アドバイザーの高口光子さんの影響も大きくて、ケアの人たちを本当に大切にする考えを教えてくれました。

 

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